2008年日印文化交流
ミティラー美術館、および
NPO法人日印交流を盛り上げる会は
日印の文化交流に関して
様々な活動を展開しています。

ナマステ・インディアのステージに6回出演している平取アイヌ保存会の「アイヌ古式舞踊」公演が今月28日コルカタ、30日ムンバイ、12月2日ニューデリーにて開催されました。アイヌの文化が18名という大人数(今までは5名以下)で世界に紹介されるのは今回が初めてです。つまり、インドが世界で最初の国となりました。
各公演には、日本に来日し、各地で公演をしたインドの芸術家が特別ゲストとして参加しました。

【3都市公演の記録はこちらのページをご覧下さい】


11月28日コルカタ公演:特別ゲスト「プルリヤ・チョウ」
11月30日ムンバイ公演:特別ゲスト「ペナーズ・マサーニー」
12月2日ニューデリー公演:特別ゲスト「チャダ」、「セライケラ・チョウ」


■アイヌ古式舞踊■


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■アイヌ民族の歴史と背景
アイヌ民族は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語や文化を育んできた日本の先住民族です。
 
日本には、縄文文化と呼ばれる時代が紀元前1万5千年前からありました。縄文人は、高度な土器文化持っていた。生活は漁猟、狩猟、採集にもとづいていた。紀元前3000年頃に陸稲、紀元前1000年頃に水稲が日本に伝わり、弥生文化が日本全土に広がっていく。やがて集落が大規模化し、連合体となり、政治的・軍事的な機能を持つクニが各地で誕生。2世紀の終わり頃には、30のクニによる連合国家ヤマタイコク(邪馬台国)も誕生。全国で大きな墓石の造営(古墳時代)も始まり、特に大和地方では、巨大なものが多く作られる。4世紀後半には、大和政権となり、この大王(大君)は現在も続く天皇家と発展する。538年には仏教が朝鮮半島の百済から伝わる。歴代の天皇の元で朝廷の体制が整えられ、都を奈良(平城京)、京都(平安京)に中国の都市文化を取り入れ、巨大な都が出現する。752年には、奈良に東大寺の大仏が聖武天皇によって建立。朝廷は北へ、南へと勢力を延ばしていく。この動きは、武家社会となり日本の開国まで(1868年)続くことになる。北方は北海道の先、現在のロシア領、サハリン(樺太)に至るまで、幾多の紛争を持ち、今日の日本の悩める北方領土問題に至っている。

アイヌ文化は13世紀(鎌倉時代後半)頃から現在までに至る歴史の中で、生み出してきた文化。現在では、時代ごとの同化政策の影響もあり、日本において日常生活は表面的にはアイヌ以外の日本人と大きく変わらない。アイヌの文化を考えると、縄文時代の日本列島人と近く、日本の中央部が弥生時代に入った後も縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられている。アイヌの衣装に描かれる文様、民族の歴史や文化を口承するユーカラ、独自の世界観は今日多くの人々を魅了し、日本にとって大事な文化遺産となっている。巨大な力に翻弄されてきたアイヌ民族の人々が、自らの文化に誇りを持ち、近年、未来へ向けた活動が始まっている。

日本の国会で2008年「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択された。内閣官房にもアイヌ文化振興室が設けられる。2020年の東京オリンピック開催までに、北海道白老町に国立アイヌ博物館が作られる予定となっている。

■アイヌ古式舞踊
国の重要無形民俗文化財でもあるアイヌ古式舞踊は、2009年ユネスコ世界無形文化遺産に登録された。アイヌの人たちには、「自然を保護する」という考えはなく、神であるカムイと人間はそれぞれがお互いに支え合って生きているものであり、人間は自然世界の一部として、そこに住まわせてもらっていると考えている。動物や植物、木や水などの他、臼や杵といった生活用具、人間が必要なものや、病気など人間の力ではどうすることもできないことを「カムイ(神)」として敬う。彼らは楽器というものはほとんどなく、それだけにより古い文化を持っていると言える。楽器としては、口琴、トンコリ(和楽器の琴に似ている)がある。歌や踊りには神々に感謝の気持ちを伝えるとともに、普段の暮らしの中での喜びや悲しみを神々と分かち合いたいという気持ちが込められている。そのような精神文化から生まれた民族の踊りは、インドの人々にも大変興味深く感動を与えるでしょう。また、彼らの衣装、独自な文様、鳥や動物を深く観察して生まれるような踊りなどは、日本の文化を考える上で貴重な機会となるでしょう。18名という大人数(今までは5名以下)で世界に紹介されるのは今回が初めてです。つまり、インドが世界で最初の国となりました。

主催したNPO日印交流を盛り上げる会は、東京でのナマステ・インディアを主催している他、日印の文化交流で活躍しています。多様な国、インドとの文化交流にあたってナマステ・インディアに6回ほど出演した北海道平取町のアイヌ文化保存会と日本に来日したインドのアーティストが協力して今回、インドの3公演が実現しました。28日コルカタはプルリア・チョウ、30日ムンバイはペナージ・マサーニー、12月2日ニューデリーは日本の演歌歌手チャダさんとセライケラ・チョウが特別ゲストで参加します。

日本の天皇皇后両陛下のインド訪問の時期が重なっている今回のインド公演は、日印の両国の絆を深める良い機会と思います。ぜひインドでの広報をよろしくお願いいたします。

【参考:菅官房長官記者会見】
 平成25年9月9日(月)午後 アイヌ政策推進会議の開催について
http://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201309/09_p.html
アイヌ象徴空間、五輪前に 札幌で政策会議 20年度開設了承
http://www.47news.jp/localnews/hokkaido/2013/09/post_20130911134506.html
公益財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構【http://www.frpac.or.jp

 


ペナーズ・マサーニー

 ペナーズ・マサーニーはインドのポピュラーミュージックのトップシンガーとして知られている。インド映画やテレビの他、海外でも評判の歌手。歌だけでなくダンスの振り付け師としてもボリウッド・ダンスや現代のインドダンスを次々と創造。10世紀イランから誕生し、今日ではインドの魂の音楽として知られるガザールの歌い手として、男性優位なこの歌を歌う数少ない女性シンガーとしても知られている。ペナーズは古典から現代まで彼女の柔らかい物腰、魅了する声、12以上の言語で歌うという才能を活かし、人々を常に感動させてきた。
世界最大とされるインドの映画市場とともに、初期はフォークダンスと現代舞踊の融合であったボリウッド・ダンスは、今日では映画からも独立した形で発展をし、まさに西洋のミュージカルに近い、演劇・音楽・演出にいたるまで充実しつつある。ペナーズはこの新しい動きの牽引役となっている。

■ガザール
ガザールは10世紀にイランで生まれた。
そのインスピレーションは、ペルシャのqasidaからきており、そのqasidaの起源はアラビア。qasidaは、皇帝や貴族を称えている。Qasidaの一部はtashbibと呼ばれて切り離され、やがてそれはガザールとなった。Gasidaはしばしば一韻の中に100ほどの対句を入れるのに対して、がザールは大体7つの対句と決まっている。その短さと集中、そのテーマ的なバライティと暗示性の豊かさ、ガザールは、qasidaを超えてイランで詩歌の最も人気のある形となった。

ガザールはインドに12世紀以降、ムスリムの侵入と共に入ってきた。ムガールは、イランの詩歌、文学を含み、イランの文化と文明を持ち込んだ。ペルシャ人が、インドで、詩歌や文化の言語としてウルドゥーを取り入れたとき、ガザールは豊かに発展する機会を得ることになった。北インドでは、Amir Khusro(1253—1325)がガザールをはじめたといわれているが、南のデカンでは、最初の歩を進めていた。Mohammed Quli Qutab Shah, Wajhi, Hashi Nusrati , Waliなどが、パイオニアとしてあげられる。これらの中では、Wali Deccany(16??—1707)は、ウルドゥー詩歌の父といえるだろう。Waliはデリーを訪問。これはガザールの歴史的な訪問。Waliの詩歌は、-愛する北を美しい豊かなウルドゥー語で歌い、ペルシャの心をよみがえらせた。そしてガザールの本当の趣を詩歌にいれ、その後ガザールが急速に広まっていった。

ガザールは同じ韻律の中に短い詩。matlaと呼ばれる韻をふむ対句で始まる。はじめの対句の韻は続く2番目の最後に繰り返される。そのように韻のタイプは、AA,BA,CA,DA,etc.とあらわされる。韻の制約に加えて、ガザールは、radifの因習を守る。radifは、最初の一行の一部・・・2,3語以上から成っていない・・・すぐに先行する韻・・・最後の言葉は最初の対句の2番目の行の中に、その類似性を持つ韻がなければならない。そして、詩全体に交互に。ガザールのはじめの対句は代表する対句。それが詩のムード、トーンを決める。それに対する評価を用意している。ガザールの最終の対句には詩人のペンネームがしばしば入る。その場合、より個人的な、トーンと意味合いとなる。ここには詩人が、自分の心の状態、宗教心、愛する人への祈り、詩的に自己を称えて楽しむ。

■2007年9月2日〜9月4日:2007年日印交流年 ペナーズ・マサーニーコンサート

■2012年11月23日〜11月30日:日印国交樹立60周年記念事業 〜ペナーズ・マサーニー 歌と踊り〜

プルリア・チョウ


 仮面舞踊チョウはパリ・カンダ (パリは守護、カンダは剣の意) と呼ばれるマーシャル・アートから生まれたと言われ、様式化されたステップや身体の動きには武術の基本が見て取れます。また手の構えは攻撃あるいは防御に直ちに移れる位置にあり、防御や剣を使って行われるトレーニングから生まれました。
 チョウとは仮面という意味があり、今日まで伝承されてきた3つのチョウ (プルリア、セライケラ、マユルバンジ) のうち、2つ (セライケラとプルリア)が仮面舞踊です。プルリア・チョウは西ベンガル州プルリア地方で演じられています。
 仮面は粘土で原型を作り、その上に紙と布を粘土で幾重にも貼り付けて形を整え、乾燥させた後着色して仕上げます。仮面には、ごてごてした飾りは一切つけない。踊り手は、顔をぴったり覆った仮面の、鼻の位置に開けられた小さな二個の穴で呼吸し、両目のところに開いている二個の小さな穴を通してのみ外界と接します。踊り手の視界は極度に限定され、容易に非日常の世界へと現実が変わって、神と一体の世界が出現します。
 プルリア・チョウの各演目に含まれる物語やテーマは、踊りの動作を通じてのみ描き出され、言葉を使わない演劇ともいえます。力強く陶酔させられるような打楽器の音楽に鼓舞されるチョウが繰り広げていきます。チョウで使われる楽器は、ドール(dhol)、ダムシャ(dhumsa、大太鼓)、ペプティ(pepti、シャーナイに似たリード付きの管楽器)とジャーンジ(janjh)などです。

■2012年10月5日〜11月6日:日印国交樹立60周年〜インド仮面舞踊 プルリア・チョウ〜全国公演

セライケラチョウ仮面舞踊

セライケラのチョウは、東インド・ジャールカンド州セライケラ地方の伝統的な仮面舞踊です。また、インドを代表する仮面舞踊の一つで、その幽玄とも言える仕草には「能」に共通したものがあり、日本でも早くから注目されてきました。

長年君臨する王家によって、セライケラ・チョウの踊りは庇護され、王家からも踊り手として訓練を受け活躍する人も出るなど、大変静かで洗練された形を保ちつつ今日まで伝承されてきました。

毎年4月にシヴァ寺院で行われる両性具有のシヴァ神 (半男半女) に捧げて行われるセライケラの祭にはどんな村人も参加しますが、その最後にこの踊りが行われます。モンスーンに入る直前に行われるこの祭は、米の豊作を祈願する豊饒儀礼の要素をたぶんに含み、踊り手は精進潔斎して祭に参加します。

仮面舞踊チョウはパリ・カンダ (パリは守護、カンダは剣の意) と呼ばれるマーシャル・アートから生まれたと言われ、様式化されたステップや身体の動きには武術の基本が見て取れます。また手の構えは攻撃あるいは防御に直ちに移れる位置にあり、防御や剣を使って行われるトレーニングから生まれたもの。

チョウとは仮面という意味があり、今日まで伝承されてきた3つのチョウ (プルリア、セライケラ、マユルバンジ) の内2つ (セライケラとプルリア) が仮面舞踊です。

仮面は粘土で原型を作り、その上に紙と布を粘土で幾重にも貼り付けて形を整え、乾燥させた後着色して仕上げます。セライケラの仮面には、ごてごてした飾りは一切つけない。踊り手は、顔をぴったり覆った仮面の、鼻の位置に開けられた小さな二個の穴で呼吸し、両目のところに開いている二個の小さな穴を通してのみ外界と接する。踊り手の視界は極度に限定され、容易に非日常の世界へと現実が変わって、神と一体の世界が出現します。

演目は、神々を題材とするものの他、夜を象徴する「ラートゥリー」、「ナービク」(漁師とその妻が助け合いながら荒海を渡る姿を借りて、人生も平坦ではないが力をあわせれば乗り切ることができるといった内容)など、哲学的、抽象的なものが多くあります。上演時間は10分と短く、ソロかデュエットが多い。

踊りのスタイルは繊細で力強いもので、リズミックな脚の動きは複雑なステップ、ジャンプ、素早い回転、滑るような歩きや異なった様々な歩きなど、その構成は振り付けと共によく考え出されたもので、大変印象深いものがあります。

セライケラのチョウはこのような特徴を持ちながら、異なった踊りのグループの間で競い合われ、さらに踊りの技術に磨きがかけられています。

■2007年6月26日〜8月1日:日印交流年 セライケラ・チョウ仮面舞踊公演

■2013年:セライケラ・チョウ仮面舞踊公演(ナマステインディア2013出演後、各地のイベントにも参加。)

チャダ

長谷川時夫

今回の日本のアイヌのインド3公演を企画したNPO日印交流を盛り上げる会の理事長 長谷川時夫プロフィール

1948年東京生まれ。インドのフォークアート、ミティラー画・ワルリー画を主要コレクションするミティラー美術館の館長。独自な宇宙観を持ち、「ナマステ・インディア」など日印の文化交流の代表的担い手として活躍している。NPO法人日印交流を盛り上げる会理事長。著書「宇宙の森へようこそ」(地湧社)

近代化を短期間で達成し、第二次大戦後の敗戦による国の荒廃にもかかわらず、現在世界第3位の経済大国になるという国、日本。その日本の中で、インド文化の紹介ということでは他に例を見ない活動をしている長谷川の主な活動とその背景について、以下紹介します。

1968年、侍の時代であった日本は、西洋諸国の外圧の中で、それまでの200年以上に及ぶ鎖国から、西欧・欧米文化を取り入れる開国をし、急速に近代化を推進することとなった歴史がある。
長谷川は1948年生まれ。東京下町16代目の江戸っ子。高校を卒業した後、当時アメリカで起きていたニュージャズを志した。テナーサックスを下町の小さな自宅で練習しているときに、外で、江戸時代から続く都々逸(どどいつ)を老人が歌うのを聞き、文明というものを直感する。「そばにある畳み(稲の茎で作られたマット)と都々逸(インドのガザルと似ている)は合うが、金属のテナーサクソスフォーンと畳みは合わない。音も同様で、音が大き過ぎて粗いことに気がつく。自分は畳が好きで、都々逸も好きだが、古い感じがする。今の自分に合った、音楽は?と、それ以来模索を始める。日本の社会には彼を満足させるものは無く、世界の音楽を一通り聴いても満足には至らなかった。それ以来、西欧化する以前の日本の文化を源とし、世界の音楽に影響されながら、新たなものができないかと歩みはじめる。仏教のお経を習い、即興で歌い始める(ドゥルパッドに似たような歌い方。当時、長谷川はドゥルパッドの存在を知らなかった)。現代音楽、ニューロック、彼はニュージャズであったが、当時それらの3つのジャンルからはみ出し始めた若者達と即興演奏集団「タージ・マハル旅行団」を1970年初めに結成。72年にストックホルム、国立近代美術館にて1ヶ月に渡って開かれた「ユートピア&ヴィジョン」という催事に、参加。その後、1年間に渡り、ヨーロッパ公演。その過程で、自分の周りに風が常にあること、太陽の影、特に石に注目した。演奏の町に行くと、大きな石を3つほど探し、ステージの上に置く。大きな石の前で胡座をかいて座り、自分が持ち上げられる最大限の重さの石を一度だけ頭上高く持ち上げ、下の石に打つというパフォーマンスを行った。持ち上げた時にすべての風を感じる努力をする。宇宙にいる己を感じたならば、落として石を打つ。石は地球上で最も美しいもの。そう感じさせる秘密は、地球は一つの石であり、月も石。宇宙は石で出きていると、当時、長谷川は思った。太陽がつくる木の影。そこに縄を掛け、影を縛り、10mほどの先でその太いロープを引っぱる。「影を引っぱる」パフォーマンス。影は、宇宙の大使「各国大使のような」と彼は言う。これに関連して、日本の茶道に最も大事なものは、茶室の花瓶に生けた花の影。和紙の窓を通した太陽の影が、宇宙を教え、そこに招かれた客と主人が、宇宙空間で出会うからだと言う。宇宙観を深めた長谷川は、生まれ故郷の東京に戻った時は、現在の中国の北京のような光化学スモッグに悩まされていた東京だった。東京には月が無い。そこで、200km離れた新潟県十日町市にある山の中に住むことになった。そこで、本物の美しい月と出会う中で、「私は月焼けした。」とも語る。
クリシュナ神やシヴァ神の顔が青いのは何故だか知っていますか?と彼はインドの人によく質問する。困った顔をしたインドの人に「クリシュナは満月が好きで、いつもゴーピーと踊っている。だから青くなったので、私ももう一万年も満月を見ていれば、そのようになるかも。」と言う。

宇宙観を更に深めようとする心の旅の中で、孤独感に苛まれていく。住んでいる場所は4mも雪が積もる場所。「当時、心が、まだ出来ていなかった自分にとって、山の中は怖く、小さな音を聞いてもお化けかなと思ったりするほどだった。」孤独は一気に深まり、生きていくことも難しい状態になった。戸を開け、吹雪の音を聞き、身体は雪で真っ白になっても、耳を澄ましていると、吹雪の音は、今まで聴いたどんな音楽よりも素晴らしく、そこで見る月は、今まで見たどんな絵画よりも美しいものだった。世の中につまらない芸術家がいなければ、人々は美術館に行く必要もない、音楽会に行く必要もない。それを止めているのは芸術家ではないか、などいろいろな思索をしていても、孤独感から離れることはできない。そんなある日、突然、目の前の雪原に小さな兎が現れ、通り過ぎようとした。「孤独だった自分は、野生の兎がこんなにも近くに現れたのでとても嬉しく思った。ふとこちらの方を見た、小さな兎の目は、孤独という世界にはなかった。いつ殺されるか分からない兎は去っていった。」その後、兎は彼の先生になり、先生を食べることができなくなったと言う。そして、長谷川氏は卵も食べない菜食を40年以上続けていることになる。山に10年暮らした後、大池という池がある地域の開発計画が起き、反対をした結果、代替案として日本では有数の豪雪地とされる森の中の廃校の小学校を文化施設として使うことになった。

インド帰りの青年が持ってきたミティラー画が縁で、インドに行きガンガー・デーヴィーさんと出会った。ガンガー・デーヴィーさんから「助けて欲しい。」と言われ、ミティラー美術館を創設する。長谷川は、日本の近代化の始まりの時に日本が誇る浮世絵が欧米に散逸していき、今ではお金がいくらあっても日本はそれらを取り戻すことは出来ない。こうした歴史のことを考え、小さな美術館でもこのミティラー画をしっかりコレクションすれば、そのうち、世の中に役に立つかもしれないと、何度も現地を訪れ、散逸し始めたミティラー絵画を集めた。そして、美術館のそのコレクションは、1980年代、故ププル・ジャヤカル女史より世界に類のない質と量のコレクションと言われた。1988年に開催された、日印両国家催事『’88インド祭』、日本委員会(インド側の委員長、ププル・ジャヤカル女史、日本側、小山五郎三井銀行総裁)の事務局長補佐になった長谷川は、それまでの国家催事が主要な大都市だけで開催されるのを見て、小さな、離島や沖縄の先にある島、地方の村まで開催。その時に、ミティラー画のアーティストを呼び、美術館でも展示できるような大型の作品を描いてもらうことをはじめた。以来、延べ100名を超えるアーティストが日本に滞在し、新しい作品に挑むことをはじめた。ワルリーの描き手の中には、17回も日本に招待された者もいる。ガンガー・デーヴィーも同様に招待され、彼女の世界に残された絵画の半分近くがミティラー美術館に収蔵されることとなる。それ以来、日印の国家催事の時に日本で開催される文化紹介において主要な役割を担うようになる。2007年から2008年に開催された日印交流年では、ICCRが日本に派遣した25の舞踊・音楽グループを北は北海道の利尻(日本の最北端)から、南は沖縄の与那国島(台湾が見える島)まで、162の公演とワークショップを開催。日本では今までなかった、あり得なかった催事を実現し、日印交流年賞をインド政府より受賞している。

1991年のインドの開放政策に対応して、日本の商工会議所とそこを事務局とする日印経済委員会は、日本企業のインド進出のきっかけになるように、インド文化紹介「ナマステ・インディア」を1993年より始める。日本で唯一のインド専門美術館の長谷川に声がかかり文化面で協力をする。2004年、日本経済が停滞する中、日本商工会議所はナマステ・インディアから離れることになる。関係団体からどこも手が上がらないので、長谷川がこれを引き継ぐ。以後、ナマステ・インディアの開催会場を代々木公園に移し、育み、発展させ、今日ではインド国外では世界最大級のインドフェスティバルに育てあげる。今年は9月28日、29日開催し、2日間で20万人を超えた。ナマステ・インディアの点灯式には、昨年はカラン・シン氏(ICCR会長)、今年は森喜朗(元首相)日印協会7代目会長が参加。今年のナマステ・インディア(21回目)は、特に、日印協会創立110周年を祝賀して開催。日印協会の110周年記念展に長谷川が書いたパネル(日印協会草創期)が展示されていた。そこには次のように書かれている。
 日本の経済の神様と呼ばれ、日本資本主義の父でもある渋沢榮一(日印協会3代会長)とJ.N.タタらの出会いと会話。それを政治面によって実現に結びつけた大隈重信(日印協会2代会長)によってボンベイと日本の航路が開設され、綿花の貿易がスタート。そのことによって、綿紡績が格段に発展。繊維産業の大きな、大発展につながり、戦前のトヨタやソニーが力を持たない時代、日本の主要産業となったことが熱く述べられている。

昨年の日印国交樹立60周年では奈良・東大寺において、日本に初めて来たインド人、菩提僊那僧を継承し、中門でのオリッシー公演、大仏の前でのワシフディン・ダーガルによるドゥルパッドの公演を奉納している。(これは菩提僊那が日本に来日して1275年の時を経て、インド政府が菩提僊那を継承して大仏に奉納した歴史的事業だと長谷川は言う。)ビノイ・ベール氏の「仏陀の智慧の道」写真展も同時に公開。長谷川は今年も同様に東大寺で開催している。10年間継続し、開催したいと言っている。また来年は、両国の文部大臣に参加して欲しいと語っている。
「752年に大仏が造られ、その詔を出した聖武天皇は当時、娘を天皇とし、自分は上皇となっていた。聖武上皇は病弱であったため、大仏の開眼式をインドから来た菩提僊那にお願いした。「断らないでくれ。」と手紙を出している。菩提僊那が大仏の瞳に大きな筆で墨を入れるときには、その筆から千近くものルイと呼ばれる紐がつけられ、大仏のお力を頂こうと聖武上皇をはじめ多くの人が紐を握った。儀式には歌舞音曲の人々、百官の他、1万人を超える僧がいた。この僧の名は東大寺要録の中に未だに残されている。いわば、オリンピックの何十倍という大事な催事。この一大国家催事を唐(中国)から船で渡り、一度は漂流し、2度目に日本に着き、その後東大寺のそばの大安寺で仏教を日本僧に教えた菩提僊那。この事は、両国の教科書に載るべきだと思っている。」
同じ60周年記念事業として、インドでは、日本のユネスコ無形文化遺産第一号の「能」を代表する観世流26世の公演をデリーとバンガロールで行った。

今年のアイヌ公演は、天皇皇后両陛下の11月30日訪印に合わせたわけではなく、昨年から決めていた日程に幸運にも時期が重なる。インドから日本に訪れ、長谷川氏の文化活動に協力したインドの舞踊・音楽家や関係者がコルカタ、ムンバイ、デリーの公演に協力する、長谷川の独自の国際交流が展開される。彼の国際交流事業の一つひとつは、まるで芸術家の作品のように、他にはない創造と豊かさ、人と自然、宇宙とのコミュニケーションについてのメッセージが随所に込められている。

■著作 『宇宙の森へようこそ』(地湧社)
■ミティラー美術館【http://www.mithila-museum.com
■ナマステ・インディア【http://www.indofestival.com

 

■11月28日コルカタ■




 ■11月28日(木)コルカタ公演18:00-20:30
  会場:プールヴァシリオーディトリア/Purvashree Auditorium
  会場HP:http://www.ezccindia.org/index.html
  住所:Eastern Zonal Cultural Centre, First Floor, IB-201, Sector III, Salt Lake City Kolkata
  Tel: (+91) 33 23356796

 ■プログラム:
  第1部:アイヌ古式舞踊公演
  第2部:仮面舞踊プルリア・チョウ公演

 ■コルカタ公演問い合わせ先:
  インドNGO CONTACT BASE
  Amitava Bhattacharya
  Founder Director
  Contact Base
  58/81 Prince Anwar Shah Road
  Kolkata 700045
  Tel:91-33-24178516/ 18 (telfax)
  Mobile:91-98310-38904






■11月30日ムンバイ■




 ■ムンバイ公演
  11月30日(土)ムンバイ公演19:00-21:00
  ソフィアバーバオーディトリアム/Sophia Bhabha Auditorium
  会場HP:<http://www.sophiacollegemumbai.com/>
  Sophia College, Bhulabhai Desai Road, Cumballa Hill , Mumbai
  Tel:(+91) 22 23538550

 ■プログラム:
  第1部:アイヌ古式舞踊公演
  第2部:ガザルの女王ペナーズ・マサーニー公演

 ■ムンバイ公演問い合わせ先:
  heloo@rockstahmedia.com





■12月2日ニューデリー■




 ■ニューデリー公演
  12月2日(月)ニューデリー公演19:00-20:30
  ICCRオーディトリアム/ICCR Auditorium
  Azad Bhawan, I P Estate, ITO , Delhi
  Tel:(+91) 11 23370698

 ■プログラム:
  第1部:アイヌ古式舞踊公演
  第2部:インド人演歌歌手チャダ、セライケラ・チョウ公演

 ■ニューデリー公演問い合わせ先:
  Shashadhar Acharya
  Tel:098100-38391
  Tel:098106-05798
  S.S.Chadha
  Tel:093112-13872






お問い合わせ


公演についての問い合わせは下記まで

NPO法人日印交流を盛り上げる会
(ミティラー美術館内)
新潟県十日町市大池
TEL:025-752-2396 / FAX:025-752-6076
Mail:info@mithila-museum.com




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