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 ◆ゴティプア舞踊とは
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ゴティプア舞踊からインド古典舞踊オディッシーは発展した
現在、インド7大古典舞踊の一つであるオディッシーは、マハラニ(Maharani)とゴティプアの踊りの様式の、2つの伝統の発展したものと言われます。マハラニはジャガンナート神に仕える女性のダンサーで、プリの寺院の中にあるジャガンナート神の前で踊りを奉納し、一方少年によるゴティプアは寺院の外で大衆の前で踊りました。オディッシーのグル(師匠)たちは、ほとんど若い頃にはゴティプアとして活躍してきました。

ゴティプア舞踊の起源
ゴティプアは、16世紀にオリッサ州を治めていた王朝の大臣の1人によって創設されました。彼は敬虔なヴィシュヌ神の信者=ヴァイシュナヴァでした。
女性の衣装を身に着けて踊るゴティプアがなぜ生まれてきたか、その理由は、Sakhibhav=「自らをクリシュナ神の連れ合いと考える」というヴァイシュナヴァの教義の中に見出すことができます。ゴティプアの歌は普通、クリシュナとラーダの熱愛を歌う、オリッサのヴァイシュナヴァの歌が歌われます。
その後、インドを制圧したイスラム王朝の時代には、女性が顔をスカーフで顔を隠し、祭のようなときにも公衆の面前に出ないパルダー制度がとられ、ゴティプアに人気が集まるようになりました。ゴティプアのダンサーは寺院の中で踊ることは許されません。祭の時などにわずかに境内で踊ることを許されたのみでした。

神への奉納の舞踊ゴティプア
しかし、その後、ヴィシュヌ神を拝む宗派ヴァイシュナヴァは、女性による踊りを許さなかったといわれます。彼らは、自らがクリシュナ神の女性の付き人として捧げるというサキ・バイヴァの教義を説き実践し、女性に代わる少年によるダンサーを養成しました。少年たちは、女性の衣装を身につけて、祭の折には寺の境内で踊りました。
こうして、神に対する奉納の踊りが、寺院を出て公衆の前でゴティプアたちによって披露されました。またこの時期、ヴァイシュナヴァは、クリシュナ神への心からの信愛を捧げるための数知れない歌を作りました。ヴァイシュナヴァは、踊りと、ダンサーが自ら歌うスタイルを、自分たちの教義と哲学を広める手段として選んだのです。

ゴティプアの歴史
オリッサのヴァイシュナヴァは、ゴティプアのダンサーたちを経済的に支えました。ジャガンナート寺院は、17世紀にムガル王朝が出現するまで、ベンガルのイスラム勢力に絶えず攻撃されました。その頃のボイ王朝の王ラマチャンドラデヴァは、寺院における日々の拝礼を復活させる一方、町のあらゆる通りに道場を作り侵略者から寺を守るために身体文化を奨励しました。Akhadaと呼ばれたこれら道場は、ゴティプアのダンサーの訓練場となりました。このときから、ゴティプアは、道場の少年たちAkhadapilasといわれました。その後、地主の保護も受けるようになり、こういった地主の中には、自らゴティプアのグループを抱える人も出てきました。
19世紀の後半になって、たくさんのプロフェショナルのグループが生まれました。プリの祭の時には、ゴティプアの踊りは欠くことが出来ないものとされ、たいていのゴティプアたちは参加します。彼らは寺院の中に入って踊ることは許されませんが、時には中庭に入って踊ることが許されました。




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